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2008年7月 雑感 

月に一度、伊豆新聞に  『若者よ!資格を取って世界に翔こう!!』 という意見広告を出しております。

 併せて、月々僅かながらではありますが、医師・看護師・検査技師等になるための奨学金制度も設けております。

 この制度を使ってもらい、できれば将来当院で資格を生かして働いてほしいと思っていますが、当院ではなく、広い意味で踏み倒していただいても、その人の人生に役立てば結構というつもりです。(ただし返還の義務はありますが・・・笑)

    

 小生も団塊の世代の最後に生れてきた人間の一人であり、そろそろ人生の第四コーナーあたりかと自覚しておりますが、毎日思うことは、“たった一回しかない人生、ドクターとして過ごせてよかった”ということです。実をいえば私より能力のあった同級生や友人は大勢いましたが、結果として、資格を取ったことにより自分の実力以上のものを展開することができたと思います。

  

 これから、遅れてくる若者にも、人生を生き抜く武器として、ぜひとも資格を取っていただきたい。人生の先輩として、地元の中学、高校に行ってこの話を伝えないといけないなぁと思っています。

 

 最近、30過ぎたくらいのごく平凡に見えるご婦人が外来診察にお見えになりました。

“薬を長めにください”というので、どこか外国にでも行くのですかと尋ねたところ、ルワンダに2年間行くということだった。その話を聞いて以前観た『ブラッドダイアモンド』という映画がふと頭に浮かんだ。同じアフリカを舞台にした映画だったためであろう。私の中でアフリカは、部族間闘争や紛争で大虐殺があったりしてひどく治安が悪いところ、大変な国という印象が強い。ルワンダも私の記憶では、大虐殺があり大勢の難民が国外に避難した国だなと思った。

  

 そこへ、JICA(海外青年協力隊)の一員として、難民キャンプの子供たちの世話をしに行くという。大学で福祉関係の勉強をしたらしい。僻地の外国で仕事をするだけでも“すごい”のに、命がけでアフリカの子供たちの世話をしに行く彼女 ― 多くは語らないが“前任者は生きて帰ってきた”と気負わず静かに自然体で話す姿が印象的だった。

  

 ルワンダという国をネットで調べてみた。1994年 紛争時の大虐殺で、犠牲者は3カ月間で100万人にも達したそうだ。昨年度の在留邦人は15人。

日本は 平和ボケ・・・自分の利益に夢中・・・

 彼女の前で 自分の気持ちが萎縮していく感覚を覚えた。

 どうか、無事に帰国してくれることを祈らずにはいられない。


「はあとふる内科泌尿器科 20周年を迎えて」

2007年1月15日をもって「はあとふる内科泌尿器科」はおかげさまで

20周年を迎えることができました。

これもひとえに皆様のおかげであります。感謝いたします。

小さな診療所を開院してはや20年。本当にあっという間に時は過ぎてゆきました。

2005年には伊豆高原に病棟も含む分院も立ち上げることが出来ました。

この20年間の社会情勢では「東西ドイツ統一、ソビエト連邦崩壊」など

世界が民主化に進む中、わが日本ではバブル崩壊など経済状況が悪化し

、阪神大震災などの災害、これはわが街伊東においても地震や台風などの被害も

経験してきました。私は、ひたすら「はあとふる」の診療に打ち込み、無我夢中でありました。

開院当時は患者様も少なかったので往診と称して「営業???」することもしばしばありました。

この20年(厳密には19年)幸いにも患者様に訴えられることも無かったし、

明らかな誤診も無かったと思います。

(単に私が知らなかっただけ!?それとも運が良かったのかな?)

これからは今までのようにうまくは行かないと思いますが「早くて、安くて、うまい!!」をモットーに

「はあとふる」の名のとおり、この診療所を訪れると「ほっとする、安心できる、Happyな気持ちになれる」そんな雰囲気を漂わせるものにしてゆきたいと思います。

わたくしも、現在57歳。この歳になりますと若いときのようなフットワークが無くなり、

いつ要介護状態になるか・・・とさびしく思う時もありますが、

みなさまに支えられながらゆきたいと思っています。

どうぞこれからも「はあとふる内科泌尿器科」を温かく見守ってください。

よろしくお願いいたします。

2007年 1月

Dr探しの経験談

はあとふる伊豆高原を開院するときに、なかなかDrが見つからずに

たいへんな苦労をしました。

そんな折、母校弘前大学を訪れる機会があり気づいたのですが、隣も前も診療所また診療所という状態でとてもびっくりしました。診療内容も高血圧の薬を一週、あるいは二週間処方しかしないというような患者さんからすると不便でコストがかかるなどといったなんとなく患者さん思いでない所も少なくないと聞いたりもします。 自分のための人生なのか、子供のための人生なのか?又、ドクターの定年が大病院だと60歳(早すぎる!!). 年齢のとり方には個人差があるとはいうもののDrの場合は判断力が優れていれば70歳でも働けると私は思っており、小生も「はあとふる伊豆高原」がある程度軌道に乗ってきたら

幼いころからの思いである過疎地、または東南アジアの方へ行って

医師として働きたいと思っています。
せっかく取った医師免許を都会に集中してしまうのではなく、必要とされる地域で、必要とされる患者さんの方々のために有意義に使ってみようではありませんか。

医師よ荒野を目指せ!

 2004 12月

「服部先生のお姿 ヴェトナムにて]

2004年7月の終わりに一週間ほど娘とベトナムへ旅行してきました。 第一の目的は、ベトナム人の勤勉さを見るため。
第二は、私の網膜剥離の手術をしていただいた服部医師が国立ベトナム眼病院で、すべてボランティアで網膜剥離の手術の指導にあたっているので、その服部氏に会いに行くという二つの目的です。
とにかく、バイクの多さにびっくり。後ろのシートに生 きている子豚3匹ものせているんです。五秒に一回はぶつかると騒いでおりました。そのエネルギーたるやすごいものでした。


国立ベトナム眼病院にて


バイクで駆けつけてくださった服部先生
服部先生はわたしの宿泊している日航ハノイに小さなバイクで駆けつけました。その中のお寿司屋に招待すると、このような高級な所に入るのは初めてだと言って大好物だと言うすしを食べ始めました。 二人で200ドルほどかかりました。ベトナム人医師の平均月収は100ドルほどとのことでした。
先生は2週間ベトナム1週間日本の生活を3年間も繰り返しているそうです。ボランティアですから交通費・生活費・すべて自前でその上、医療費が払えないベトナム人のために、自分でカンパすることもあるようです。1カ月前には川口外務大臣がその病院に訪れ、視察をしていったとの事でした。
別れるとき先生は自分のバイクに乗って、雑沓の中にまぎれていきました。先生の夢は眼科の病院をアジア網膜剥離センターというような専門病院を作りたい、との事です。

中にはスゴイ男もいるもんです。
<おわり>