2010年9月

H22年9月11日(土)ホテルサザンクロスにて
開催された 当院「第8回院内学会」で肥田理事長の発表された内容を2回に渡り

連載いたします。

『ドクターになって33年と5ヶ月』第1部
 理事長 肥田大二郎

【弘前時代】
ドクターになって33年と5ヶ月ということで、本日発表する事になりました。
「33年は取った方がいい(笑)」と言う人もいます。「まだ5ヶ月くらいの事しかやっていないんじゃないか(笑)」と言う人もいますが、‘一応‘33年と5ヶ月たちました。
高校を卒業して現役で京都工芸繊維大学に入りましたがすぐに辞めまして、3浪の末、弘前大学医学部に入学しました。1977年に卒業して泌尿器科に入局しました。「頭のいい人が脳外科、バカが泌尿器(笑)」ということは本当はないはずなんですが、私の場合はそれに近かったのかもしれません(笑)。私は静岡県から奨学金を月2万円貰っていました。最初は、県立総合病院の内科の方に入ろうと思って履歴書を送ったのですが、全然返事がないんです。京都大学の占領地(関連病院)なので弘前の人が行っても相手にされないんですね。聖隷浜松病院の泌尿器科が弘前大学の関連病院だったので「君は静岡県出身だから泌尿器科に入れ」と言われました。飲み屋やキャバレーに連れて行かれ、くどかれ、同級生3人と泌尿器科に入りました。同級生は大学院へ、私だけは非常勤職員扱いで日当2,800円でした。そこの泌尿器科は変な所でして、教授は大学に3日ぐらいしかこないんですよ。運転手付きのセンチュリーに乗っていまして、国立大学の教授なのに財団法人の透析センターの理事長を兼務していました。商売が好きな方で、医局員を使って商売をやっているんじゃないかと。ある時、『肥田君、君に5万円やるよ』なんていわれたものですから、「俺はもしかしたら教授派で、将来このひとについていけば、年1回5万円ずつお小遣いを貰って、そのうちいい所にいくんじゃないか」と思っていました。が・・・なんと!!!知らないうちに私は三流病院の職員になっていました。いわゆる名義貸しです。この頃は、私立に通っていた弟に月5万円ずつ仕送りしていました。

【浜松時代】
2年後に聖隷浜松病院の泌尿器科に移動しました。あこがれの聖隷浜松病院!!。聖隷浜松病院といいますと静岡県で一番か二番の非常にすばらしい病院でして、医者は70人か80人くらいでした。泌尿器科は、上司の先生と私しかいないんです。上の先生は、はっきり言うと手術ぎらい、手術が苦手というかきらい。患者さんから「肥田先生!!おはようございます」といわれると私は恥ずかしい、挨拶されるのが恥ずかしい・・・医者らしいことはやっていないのに「先生、先生」なんて言われるのが嫌で恥ずかしいというところでした。
ある時、大きい膀胱腫瘍の患者さんがいました。血尿もあるし、腫瘍を摘除した方がいいのですが、その先生は癌をとらずに、血が出ているところを電気メスでジュウジュウ焼くだけなんです。「そんなことやっても何も役に立たないですから、先生、膀胱全摘手術をやりましょう」というと怒られるんです。その先生を飲み屋へ連れ込んで酔わせて(得意の戦術!!)「手術をやりましょう」って話をするのですが、相手もさるもの。酔っ払っていても「ダメだ」っていうんです。3回くらい説得しましたが駄目でした。ですから、「こんな所に居たってしょうがない」と教授に直訴しました。そして豊橋市民病院に移動する事になりました。

浜松聖隷時代に貴重な症例を経験しました。「風邪をひいた」という26歳の男性ですが、内科で胸のレントゲン写真を撮ったら左右の肺に腫瘍が1つずつありました。ということは、どこかの癌が肺に飛んできた(転移)と考えるのですが、いろいろ調べたけれど元の癌がどこにあるか解らない。困っていたら、ある先生が「妊娠反応をやったらどうだ」と。
「男性に妊娠反応をやれ」って言うんですよ。妊娠反応はhCGという物質に反応するのですが、ビンゴ!!。hCGを作る睾丸腫瘍だったのです。そして我々泌尿器科に紹介されたのです。睾丸を触ってみたら、少し硬い程度でした。このような症例は、今まで5年生存率ゼロなんです。私はあまり勉強熱心ではありませんが(笑)、たまたま英語の論文を見ていましたら、シスプラチンという薬があり、それが睾丸腫瘍に効くと書いてありました。シスプラチンは日本では未発売の薬でしたが、薬屋さんに無理を言って入手し使ってみました。現在では考えられない行動です。無謀というか・・・でも、治したい一心でした。そしたら治っちゃったんですよ。5年後、彼のことが気になって電話したら、彼の話し声の後ろで、子供が大きな声で泣いていました。嬉しかったですね。「俺が作った子供だ」と思いました(笑)。ドクターになってからロクなことはしていませんでしたが、「この人は私が助けた」と思っています。

『バカヤロー』
浜松の聖隷病院があかんという事で豊橋市民病院に移りました。今度の上司の先生は
ドクターになって7、8年目なんです。患者さんには「私にまかせなさい」と言って、格好はいいけど手術はあまりうまくないんです。
2歳くらいの子供の尿道下裂の手術をした時の話です。手術というのは、数多くやっている先生にお願いした方がいい。やっぱり1例か2例経験した程度の先生の所では、ダメなんです。上司の先生は経験があまりないのに手術をしました。そして縫合不全を起こしてしまいました。失敗手術に終わったんですよ。そうしたら、その先生が看護師を怒るんです。「お前の術後管理が悪い」とか言って、患者さんの御両親の前で怒るわけですよ。
私は腹が立って、「なんだそれ!。自分の手術のヘクリじゃないか!!バカヤロー!!!」
て怒ったんです。それで辞めた。こんなくだらんことやってられない。そしたら看護婦さ
ん達が私のために送別会をやってくれた。その席上、「やっかいになりました」とパンティを30枚配りました。私は少し変わっているかも知れない。「自然流、自然体でいこう」と思いました。でも、ドクターとすると不完全、不完成品なんですね。それを何とかしなきゃいけないと考えたわけです。

【信楽園へ】
そして平沢由平先生がいらっしゃる、新潟の信楽園病院というところへ行きました。人工透析の勉強をしたかったんです。「将来、村上市に透析センターを作るから、それをやってくれないか」と言われて無給の研修医として行きました。信楽園病院はすごく変わっているんですよ。ドクターは診察もそこそこに、朝から図書室へ行って英語の最新文献を読みあさっているんです。昼休みはテニスをやったり、夏は近くの海岸で海水浴やったりですね。そんな“のんびり”とした病院でした。そして、私が大好きな直江兼続の出身地である村上市に移って透析センターを始めたわけです。外来診療は1日あたり5~6人でしたが、透析センターがあるので月、水、金は夜の11時くらいまでずーっと働きました。働くと言っても「病院にいればいい」。ようするにビールでも飲んだり、横になったり、とにかく午後11時まで病院にいるということです。
平沢先生の話になりますけど、今年の3月に平沢先生から突然お電話がありまして、『肥田先生、僕の代わりに4日間くらい診療所をお願いできませんか』ということでした。平沢先生は現在82歳くらい、私にとっては“雲の上”の先生ですから、「ハイわかりました!すぐ行きます!!」と即答しました。私も自分の仕事があるのでどうしようかなと思いましたが、どうにか他の先生方にお願いして新潟市まで行きました。その後、平沢先生は肺癌でこの10月にお亡くなりになりまして、またすっ飛んで御通夜にいきました。やっぱり仁義というのが大切だと思います。
さて、村上クリニックのお話ですが、新規に始めた診療所ですから患者さんが来ないんですよ。「何とかして患者さんを増やそう」と思って頑張りました。村上のお祭りの時の出来事ですが、「老人が喉に餅を詰まらせて死にそうだ」と。道具を持って救急車に飛び乗り、この老人を助けたのですが、診療費は保険があるから2,000円ぐらいですかね。動物病院と比べると、人間はずいぶん安いなーと思ったことがあります。
ところで、村上は山が多いところでして高圧線の鉄塔もたくさんあります。とある日曜日の早朝、「鉄塔で首を吊った人がいるので、そこに来てくれ」という電話がありました。
「村上クリニックの評判を上げなくちゃいけない」と意気込んで行きましたよ。死体の検死までやって終わったのが夕方の4,5時くらいでした。そして死亡診断料として頂いたのは800円でした。なんか間が抜けているというか、お金さえ貰えばいいというわけではないのですが、そんな事いくらやったって死体は喋りませんし、評判にはつながらない・・・でも、一生懸命やってました。

そして・・・・・・緊急事態発生でございます!!!・・・

2009年9月

平成21年9月9日『若者よ!講演会』より

第一部 『若者よ!!資格を取って世界に翔こう!』   講師 肥田大二郎 医師

自身の経験から… 熱いメッセージを 若者に伝えたい!
なぜ、資格は大事か?資格は必ず武器となる!

当日のプレゼンの一部をご紹介!

若者はやりたいこと、やらなければならないことが多すぎる・・でも

今の君の今日は、すごく重くて大事!   武器となる資格を身につけよう!

DR.肥田 恐竜時代なら真っ先に死んでる!みじめなこと・・お金がない、夢もないこと

大卒の学歴が、それだけで役に立つか?

社会に出て、通用する資格を  医療の目的は単純明快。医療系の資格には夢がある。

★『若者よ!講演会』 PartⅡ

第二部『あなたの幸せってなんですか?』   講師 服部 匡志 先生 略歴

1964年大阪生まれ。

京都府立医科大学医学部を卒業後、日本各地の病院で経験を積む。
網膜硝子体手術の分野ではトップレベルの技術を持つ。

2002年からベトナム国立眼科病院で最先端の内視鏡を駆使して網膜剥離や糖尿病網膜症などの治療、指導を始める。ベトナムでの医療活動はすべてボランティアのため、月の半分はベトナム、残りは日本国内での医療活動という生活を続けている。

その活動も7年を過ぎ、6000人以上の失明患者を救い、ベトナムでは“神の手を持つ男”と呼ばれている。

2004年 アジア失明予防の会が発足し、その活動をサポートしている

2005年 外務大臣より感謝状が贈呈される

2006年 宮沢賢治の「イートハーブ賞」受賞

2007年 ベトナム保健省より「人民保健記念章」受賞